質的研究批判がネットで盛り上がっていたので見てみたら、興味深い意見があった。「人文学では少ないエビデンスから突拍子もないアイデアを思いついた者が偉い」そんなような趣旨だった。
結構妥当な批判だと思ったがそもそも(歴史学においては)エビデンスがなさすぎるという問題がある。また、使える史料を全て使って考えるという歴史学の枠組みの中で、どうしても解釈しきれない問題というのは存在する。ただの外れ値として切り捨てるのは簡単だが、そういうデータが無視できないほどたくさんある時には、当時の世界観というのを見直す必要がある。この時に「突拍子もない」アイデアが必要とされる。
現代日本に生きていて、何かの機会にアフリカのある部族どうしの関係性の話を聞いたり、インドやイスラム教徒の婚姻の慣習を見聞きしたりして耳を疑ったり驚いたりするのはごく普通の反応だ。その驚きは想像したことすらない自分の生きている世界とは全く違った世界観を知ったことがきっかけで起こっている。
同じ時間に生きていても場所が違うだけでそれだけ社会のあり方は違いうるのだから、いわんや歴史をやということである。また、そのような世界観にリーチするのは大変困難で(例えばその文化圏に生きる人の生の話を聞いて初めて彼らのあたりまえを知ることができる、というのが普通だろう)から、その世界の住人と話す術を持たない歴史家たちはどうやって違う次元の世界観を掴めばいいのだろうか。無論現存する史料を通してということになるが、必ずしもそれらが多くを語るわけではない。
伝わっている情報量の過小さと、実際の当時の世界を説明しうる言葉との間の距離はとても大きい。影響力を持つような歴史研究にはそこを 飛躍 して想像し難い世界観へ到達するための発想がしばしば必要になる。そういうことだと思う。